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 ■ 高取城の歴史

西 暦和 暦歴 史 背 景
1332年元弘二年高取城創築 南朝に属した越智邦澄によって築れる
1511年永正八年「ツボ坂并タカトリ山ノ城」と表される「祐園記抄」
1580年天正八年大和一国破城によって一時廃される
1584年天正十二年「鷹鳥ノ城」で火事。筒井順慶の元で再興され、その家臣・松蔵弥八郎が在城
1585年天正十三年筒井順慶の子、定次が伊賀に転封
大和郡山百万石の城主大納言・豊臣秀長が詰城として、宿老本多太郎左衛門に命じて、中世の高取城を鉄砲戦に対応出来る近世山城に一新すべく築城させ、そのまま入城させる
1595年文禄四年関ヶ原の合戦時、西軍の攻撃を受けるが撃退する。 豊臣秀長の養子、秀保が横死。本多太郎左衛門の子、利朝(一万五千石→関ヶ原の戦いで二万五千石増える)城主となる
1637年寛永十四年豊臣利朝の子、利家病死
1640年寛永十七年植村家政が城主となる(二万五千石→二万五百石→二万五千石)
1863年文久三年八月二十六日大和の変、中山忠光を盟主とする天誅組は、高取城を襲撃。島ヶ峰に陣地を敷いて天誅組を撃退する
1873年明治六年 県令一三七号で払い下げ(売却されたものの一つが現在の子嶋寺山門となる。旧二之門である)
建物全部で七円三十五銭六厘(一説には百円)で落札されるが、全部取り壊されなかった
1887年明治二十年天守を初めとする建物は残っていた。九月に黒門を払い下げる
1954年昭和二十九年
三月三十一日
告示第七八号で国指定史跡に指定
1973年〜1974年昭和四十八年
〜四九年
本丸石垣が修復される
2000年平成十二年壺阪口石垣が修復される