Fred Hoyle, A Life in Science

Simon Mitton
(Aurum Press, London)


評者:藪下信


科学者,あるいは科学について書かれた書物は多い.しかし,この本はそれらのどれよりもおもしろく,しかも有益な情報をいろいろと提供してくれる.少なくとも科学を志そうとする大学(院)生,若手の研究者は一読すべきである.これは,Fred Hoyle(フレッド・ホイル)という20世紀の科学の巨人の一生を科学の発展を通して叙述したものだが,著者はホイルの近くにいて,いろいろな側面から知りうる立場にあっただけに,普通のジャーナリストでは到底知りえないところにまで,ホイルの人となりと学問上の成果について興味深く書いている.評者はかなり前に,J. ワトソンの二重螺旋と題する本を読んだことがある.これは著者が,どのような経緯で,F. クリックとともに,周囲の多くの学者との議論などを通して,DNAの構造を発見するに至ったかの道筋を書いたものである.しかし,ここにとりあげた本は,より面白いのみでなく,有益である.

まずホイルとはいかなる人物であったのか.王立天文学者であり,ホイルの後任の教授であったマーチン・リース卿によれば,「ホイルの星々,(原子)核種合成,宇宙の構造への絶えることのない洞察は,20世紀天体物理学へのもっとも偉大な貢献である.彼の理論は,たとえ後で誤っていると分かったときでも,常に刺激的であった.ホイルは彼の学生や共同研究者たちだけによってではなく,講演や書物によって彼を知ったより多くの人々によっても,温かく記憶されるであろう.」

彼は,どのような問題にも関心をもち,彼なりに解答をあたえた.したがって,発表した論文も,天文学のいろいろなテーマについてであって,自らを特にこの分野の専門家と考えなかった.評者の知る限りでも,日本で大地震が起きたときの世界経済への影響についてコメントを出していた.このようなことから,アメリカの有力雑誌の News Week は,表紙にホイルの写真を載せ,20世紀のレオナルド(ダ・ヴィンチ)と評した.

この本の著者の S. ミットンは,ケンブリッジ大学で電波天文学を専攻し,博士号(Ph. D.)をえている.しかし,研究者としての道は選ばず,ジャーナリストを志し,長年大学出版部で天文学関係の編集者をつとめた.現在,International Journal of Astrobiology(宇宙生物学)という学術雑誌の編集長を務めている.この本でもとりあげられているが,ケンブリッジ大学では,明らかにホイル理論に反対していたグループがあった.それは,M. ライルとヒューイッシュをリーダーとする電波天文学グループであり,著者のミットンは,その分野で院生時代を送ったわけであるから,この対立についてはかなり詳しく知りえた立場にある.彼の経歴からしても,ホイルについて書く場合,もっとも有利な立場にいることはまちがいない.

この本は12章からなる.最初の2章は彼の幼年期と大学生時代をとりあげている.フレッド・ホイルは1915年に,ヨークシャアに生まれたが,ここはブロンテの名作「嵐が丘」で有名になったところであるらしい.ブロンテ姉妹が1820年に移ってきたホワースの村はホイル家から約8マイルのところにあり,目の届く範囲であったという.英国の美しい田園風景が,ここにしばらく描かれている.父は羊毛の商人,母は結婚するまでは学校教師であった.しばらくして,第一次大戦が勃発,フレッドの父ベンは戦争に参加するが,無事帰国するまでの経緯が,かなり詳細に描かれている.読んでいると,英国映画の一部を見ているような気分にさせられる.いくつかのエピソードがとりあげられるが,そのひとつは,英国特有のいかにも厳しい学校教育を描いている.小学校在学中に,ある花はいくつ花弁があるかを聞かれた.フレッドは6つ,と答えたが,女性教師は,5つでしょうと譲らず,「ホイル,注意しなさい!」といって,左側の耳に平手をくらわせた.このためか,フレッドは耳が不自由になり,後年,左耳が聞こえなくなったという.さらに,父親の仕事も,大不況の影響でうまく行かなくなっていた.恵まれた環境とはいえないまでも,ビングレイ・グラマー・スクールで次第に学力をつけ,最後には,ケンブリッジ大学のエマヌエル・カレッジに入学することとなった.彼を終始指導し支持してくれたのは,母校の A. スメイルズであったことが,詳しく書かれている.

こうして大学に入学して,最初は物理学を専攻したが,後に数学専攻に転ずる.とはいっても,日本の大学のように,学科を変えるというものではなく,単に専攻をかえるだけのことなので,手続きそのものは複雑なことはない.卒業するときには,トップの10人に入る成績を得た.そして,大学院へ進むのだが,制度としての大学院はなく,研究生として認定してもらう.評者の知る限りでは,卒業時の成績がファーストクラスであれば研究生として認定された.ただし,そのためには,指導教官に認めてもらわねばならないが,ホイルは R. パイエルスという理論物理学者をえらんだ.パイエルスは,ヒトラーが台頭してくるドイツをのがれ,イギリスにやってきたのだが,ケンブリッジでは安定したポストがえられず,後に他の大学に転出する.結果として,ホイルは再度指導教官をさがさねばならぬ破目におちいるが,通常は院生を指導しない P. A. M. デイラック(相対論と量子力学を統合した理論物理学者)が指導することに同意した.この本の著者は,これはホイルにとって,きわめて幸運であったと述べている.こうして1939年に,理論物理の2編の論文を発表した.この年に,セント・ジョンズ・カレッジのジュニア・フェローに選ばれただけでなく,もうひとつの奨学資金も得て,突然裕福になり,最初の自動車を手に入れたとある.彼も,普通の若者と変わらない側面があったということになる.もはや学位を得る必要はなかったので,ホイルは終生 Mr.(後には Professor)Hoyle として通すことになる.

第3章と4章では,ホイルにとってもっとも重要な時期が取り上げられている.それは,研究面では,理論天文学を専攻すると決意したことであり,もうひとつは,戦時研究を通して,H. ボンディとT. ゴールドと知り合うことになったからである.ボンディとゴールドはともにケンブリッジの卒業生であり,またオーストリアからの移民であった.政府は最初この対戦国からの二人を信頼していなかったらしいが,後に才能を見込んで,戦時研究に従事させた.

ホイルはセント・ジョンズ・カレッジのフェローに選ばれたことで,R. A. リットルトン(Lyttleton)と知り合うことになる.そして,二人でアクリーションという問題を研究することになる.これは,星間ガスが,星の重力に引かれて星の表面に落ち込み,物質を供給するのみでなく,エネルギーを放出するという過程である.ところが,この論文を王立天文学界(Royal Astronomical Society, 略して,RAS)の雑誌 Monthly Notices(専門学術雑誌としては,もっとも古い歴史をもつ.現在も,もっとも重要な雑誌のひとつ)に投稿するが,これがうまく行かない.査読員(レフェリー)による報告をもとに,学界の評議会(council)が採択するか否かを判断する.評議会は,好意的な判断をせず,著者たちは,結果として,大学内の紀要(Proceedings of the Cambridge Philosophical Society)に投稿し受け付けられる.学界と二人の間の対立が,詳しく書かれている.この論文は,アメリカの天文学者 H. シャープレイが,書いた文にヒントをえている.それは,長い時間にわたって,明るさが変わる星があり,H. シャープレイはそれを,星と星間ガスとの摩擦による発熱とした.ただし,具体的にどのような量の発熱があるかなどについては,一切触れられていない.ホイルとリットルトンは,このアクリーションという現象が,結果的に地球上の氷期を引き起こすと主張した.天体現象を地上の現象と関連付けるというのは,面白いアイデアであるし,また実際その可能性は高いのだが,そのような理論には必ず強い反対が伴う.ホイルらは,キャリアの出発のときから,敵を作る破目に陥ってしまうのである.なお,リットルトンとボンディは,後に,地球自転の長さが潮汐作用の結果変化するときに,それが地球の内部にあるコア(液体)で,どのような流れをひきおこすかを研究し,同じく大学紀要に発表している.またホイルらは,赤色巨星という範疇の天体の構造について,新しい理論を提案し,これは Monthly Notices に掲載された.評者もこの論文には目を通したが,著者の言う通り,内容はきわめて数学的で,メインの部分はホイルではなく,リットルトンが解析したのであろう.こうして二人は約10編の共著論文を発表している.ここで興味あるのは,アクリーションをあつかった論文のひとつで,後に Monthly Notices に掲載されたものは,アメリカはプリンストン大学の著名な天文学者 H. N. ラッセルが査読したことが,この本では触れられている.著者の一人のリットルトンは,研究生時代,プリンストンでラッセルのもとで研究し,ケンブリッジ大学に提出した学位論文は,主としてプリンストン時代の研究結果である.面白いのは,上に触れた赤色巨星についての論文には,所属機関(または連絡場所)が書かれていない.戦時秘密であったのだろうか.

ホイルの戦時研究について,かなり詳細に触れられているが,天文学との関係で大切なことは,1944年にアメリカを訪問したことである.アメリカ海軍が学会を開催することになっていたので,ホイルが英国代表の一員として,海軍の船舶でアメリカに行くことになる.ここで,あちこちの天文台を訪ねたのみでなく,プリンストン大学に,H. N. ラッセルを訪ねた.こうして,外国にも知己を広げ始めた.

第5章(宇宙の本質)では,ホイルと宇宙論の関係が取り上げられている.実は,これはホイルを,一般人の間で著名にしたテーマではあるが,しかし,彼のメインの業績ではない.戦時研究の間,ボンディとゴールドとの3人で,いろいろな科学の問題について議論したが,そのうちのひとつのテーマが宇宙論であった.一般相対論を宇宙全体に応用することは,すでに数学者によって行われていたが,実際に宇宙論をひとつの科学のテーマ(仮説を観測との比較により検証する)として取り上げたのは,エディントンである.当時の状況として,大きな問題であったのは,実は天文学から導かれる結果と,地質学から導かれる結果との間に,大きな矛盾があったことである.地球上の岩石に含まれる放射元素の分析によれば,地球の年齢はおおよそ40億年と推定された.ところが,ハッブルが見出した宇宙の膨張の割合をもとに,宇宙の年齢を推定すると,18億年ぐらいとなっていた.これは,宇宙年齢パラドックスと呼ばれていたもので,ボンディが宇宙論(Cosmology)と題する本を1950年に発表したときには,このパラドックスが存在していたが,その後の観測とデータの解釈によって,改訂版を1959年に出版したときには,宇宙年齢は130億年とされ,このパラドックスはもはや存在しないようになっていた.

では,ホイルとボンディ,それにゴールドの3人は,このパラドックスをどのように解決しようとしたのか?それは,宇宙は進化しているのではなく,常に定常的だと考えることによってである.宇宙には,始まりもなく,終わりもない.ただし,宇宙は膨張しているわけだから,それがいつまでも続けば,宇宙の物質は次第に希薄となっていくので,膨張する宇宙が,同時に定常的ということはあり得ないのではないか.彼等は,それは宇宙の空間のいたるところで,わずかではあるが,物質が水素原子の形で創造されるのであると考えた.この想定に立って,ホイルは単独で,ボンディとゴールドは共同で論文を書き,それらは王立天文学会の Monthly Notices に1948年に発表された.

また,1950年には,BBC がホイルのラジオ番組への出演を依頼してきた.この講演をもとに書いた本が,「宇宙の本質」と題されるもので,ベストセラーとなり,ホイルが多額の印税を得たことが書かれている.こうして,ホイルは一気に著名な科学者の仲間入りをし,後に,SFをも著すが,これもベストセラーとなり,かれの才能が多方面にあることがあきらかになってきた.1955年には,「天文学の最前線」を著し,これも非常な好評を博した.これには,宇宙論のみでなく,星の内部での原子核反応や,超新星の爆発のメカニズムなどが,きわめてわかりやすく解説されており,彼の文才を示している.また,SFも執筆し,それの映画化にあたって,それまでは無名の舞台女優をホイルが指名し,それがきっかけで,その女優が知名度を上げることなどが触れられている.

奇しくも1948年には,ライバル理論とも言うべきものが,発表されている.それはガモフらによるもので,ホイルはそれをビッグバン理論と名づけた.宇宙はきわめて高密度で,高温の状態から出発したというものである.そして宇宙は膨張を続け,その中で銀河が生まれ,星々が出来たという説である.これは,定常宇宙に対し,進化宇宙と呼ばれる.

後年,この定常宇宙論には不都合な観測データが出てきた.それは,宇宙の背景熱放射で,もうひとつは宇宙年齢のパラドックスが消滅したことである.ボンディとゴールドは,もはや定常宇宙論に固執しなくなり,また,もとは彼のグループに属していた宇宙論の専門家の D. シアーマも,背景放射の発見以後は進化宇宙論に転向した.その経緯は「The State of the Universe」に書かれている.しかし,ホイルは最後まで諦めなかった.結果として,彼の大学内での評価を落とすことになったのではなかろうか.これを評者なりに推測すれば,彼の最大の貢献と評価される化学元素の合成は,いわば,既成の物理法則を星の内部に応用するということであって,特に物理学の根本的な法則の発見というようなものでもない.その意味では,エディントンの星の内部構造の理論と同じようなものである.エディントンも晩年,宇宙を通して,物理の基本法則の探求に没頭した.ホイルは標準理論とされるもののなかに,観測データと整合性のないものをいくつか見出しては,それを指摘しつづけた.しかし本当に求めていたのは,それらをも包含できる統一理論なのではないかと想像される.

ここでは,第8章をまず取り上げ,その後で,7章に触れることにする.第8章は,「化学元素の起源」と題して,ホイルの研究の中でも,もっとも重要な貢献について取り上げている.ただ,この研究テーマが,ホイルと大学当局との対立の遠因ともなったことは皮肉と言わねばならないが,実はそれは大学の歴史とも関係がある.

20世紀はまさに科学の進歩の時代であったが,特に物理学では,長足の進歩があった.特に世紀の初頭には,ケンブリッジが重要な役割を果たした.まず,電子を J. J. トムソンが発見し,その弟子であった E. ラザーフォードが原子核の存在を証明し,チャドウイックが中性子の存在を発見した.また F. アストンは原子核の質量を分析する方法を見出し,また,コックロフトは,原子核の加速器を発明した.これらの研究(すべてノーベル賞を得ている),すなわち,原子核物理学は,ここで生まれたといっても過言ではない.しかし,ラザーフォードが死んで,物理学の教授職が空席となったとき,大学はその分野とは関係のないブラッグを後任に任命した.結果として,英国内での原子核物理学は衰退してしまった.またドイツ,ハンガリー,イタリーなどから物理学者がアメリカに移住し,アメリカが原子核物理学のメッカとなってしまった.したがって,ホイルが原子核物理学を使って星の進化と星の内部での化学元素の合成を研究しようとすれば,それはアメリカに共同研究者を求める以外に方法はなかったのである.

星の内部でのいろいろな原子核の合成について研究するには,当然のことながら原子核についてのデータが必要になってくるが,部分的にはフリッシュが提供したとある.この分野でのかれの最初の論文は,1946年に発表されたが,すべてのデータがそろっているわけではなかった.王立天文学界の評議会は,雑誌に発表される論文の著者の幾人かに,学会で発表するように招待するが,ホイルは当然その一人となった.これに触発されたのが,後にバービッジ夫人となるマーガレットであったことが書かれている.おもしろいのは,この時点では,のちにビッグバン理論と呼ばれる進化宇宙論はいまだ,発表されておらず,またホイルらの定常宇宙論も発表されていなかったことである.ホイルは,大きな星が最後に超新星となって爆発することに着目し,その過程でいろいろな元素が合成されることをしめした.ところで,星の内部での核反応において,炭素の同位体12Cが重要な役割を果たすことが次第にあきらかになってくるが,ある重要なデータが欠けていることが決定的となる.それは,エネルギー順位とよばれるものだが,ホイルはある値のエネルギー順位があるはずだと主張する.その根拠は,炭素は極めて豊富に存在する元素であり,それが存在するためには,その順位が存在するはずだと彼は考えた.実際にファウラーの所属するカリフォルニア工科大学で実験を行ってそれが確かめられた.従来は,実験データをもとに,良く知られている事実が説明されるのであったが,ここではじめて,周知の事実から物理世界はこうでなければならないと推定する考え方(後に人間原理と呼ばれる考え方)が生まれたのである.

この章では,またどうして,G. バービッジ(物理学者で,後に天文学に転向)が W. ファウラーと知りあうことになったのか,さらに,ファウラーの紹介で,ホイルと知己になったかの経緯が記されている.こうして,バービッジ夫妻,ファウラー,ホイルの4人が共同の関心を持つテーマについて,共著の論文を書くチャンスが生まれたのである.彼等の論文では,星の内部で,どのように元素が合成されるかが詳しく考察されていて,ある学者は現代科学のバイブルであるとすら賞賛している.事実,この論文は1500回も学術論文に引用されている.この業績,その他の星の進化への貢献で,ファウラーはチャンドラセカールと同時に1983年にノーベル物理賞を受賞した.ファウラーはたびたびケンブリッジでホイルと共同研究しており,評者が院生であったときにも,天文台クラブ(Observatory club)で講演したことがある.出席者はホイル,リットルトン,レッドマン(観測天文学の教授),それに2,3人のスタッフと他は10人前後の院生であった.テーマはもちろん核物理に関するものであったが,ファウラーは,自分は数学は得意ではないので,これらの式の厳密解は求めないが,おおよそのところはこのようにして解ける,というようなことを言って,なにがしかの結論を導いていた.これは,レッドマン教授主催のクラブで,院生一人一人に,招待状が送られ,講演前の約30分はティーの時間で,ケーキが沢山出てくるので,普段は辛抱している院生がケーキで口をいっぱいにしていたのが思い出される.ある種のエリートクラブであったといえるのだろう.

ところで,ホイルはますます多くの時間をカリフォルニアで過ごすことになる.結果として,院生の指導も十分には出来なくなってしまう.ブラックホールの研究で有名な S. ホーキングもホイルの指導をもとめて,研究生となったが,ホイルとあまり接触できないので,不平をもらしていたらしい.この事情に対して,学内からも批判が出ていたことが触れられている.これを補うために,外部資金によって,R. テイラーを採用し,院生の指導にあたらせた.テイラーとは共同で,ヘリウムの起源と題する論文を雑誌 Nature に発表し,観測されるだけのヘリウムを水素から合成するには,ビッグバンのような状態か,大質量の星の内部でしかありえないことを示した.後年,R. テイラーが I. ロックスバラと日本に来たとき,ヘリウム合成の際の高温が,宇宙の背景放射となって残っている可能性について,気付いていたのか尋ねたところ,フレッドも自分もその可能性は気がついてはいたが,それが観測されるとは思わなかったので,その論文では触れなかったとコメントしていた.これは後に,ベル電話研究所のペンジャスとウィルソンが見つけ,ノーベル賞を受賞したテーマである.ウィルソンはカリフォルニア工科大学で,ホイルの講義を聴いて,宇宙論に興味をいだくことになったことにも触れられている.

さて第7章は「巨人の激突」(Clash of Titans)と題される.何か,暴力事件も絡むのかと想像されるが,そうではなく,科学上の論争で,しかもそれに関わった両人とも,同じ大学に所属していたので,一般にも話題になっていた.評者も院生でいたころ,貴君はどちら側ですか,とよくきかれたものだ.ホイルと正面衝突することになったのは,マーチン・ライル(M. Ryle)で,ほぼ同年代の物理学者.ホイルと違うのは,まず恵まれた家庭(父はケンブリッジ大学の物理学教授で,後にオックスフォードに医学の教授として転出した.また叔父のギルバート・ライルは哲学者)の出で,いわゆるパブリックスクールの出身.オックスフォード大学クライスト・チャーチで物理学を学び,戦時中はホイルと同じく軍事研究に従事し,戦後はケンブリッジで地球外から来る電波の研究を行った.最初は,太陽から出る電波を測定していたが,そのうちに,天球のいろいろな方向に見られる電波源を見出した.実はこれが,ホイルとその仲間らとの論争の出発点となる.

ホイルとゴールドは,それらの電波は銀河の外部からくると主張したが,ライルは,銀河の中からに違いないと主張.この論争は,最終的には,ホイル側の勝利となった.しかし,学界のような公開の場での論争は,それがどのように終るにしろ,個人的に気まずい思いを残すことになる.事実,ゴールドはポストの期限が来たときに更新されなかった.

さらに,観測装置(今の場合は,電波望遠鏡)の規模が大きくなるにつれて,遠方の電波源が数多く見つかってくる.すでにホイルらは,定常宇宙論を発表していたが,ライルは自分らの観測結果はこれと矛盾すると主張,こうして20年間に及ぶ論争が始まった.ライルのグループはホイルらの批判に極度に神経質になり,公式に観測結果を発表する以外は,学内でも秘密主義が守られ,フランクな討論は二つのグループの間では行われなかったことが詳しく書かれている.評者は,この分野のことは専門外のことなので,良く理解していなかったが,著者は電波天文学を研究した経験をもつだけに,闘わされた論争の内容をかなり詳しく説明している.結論からいえば,電波観測だけでは,進化宇宙か,定常宇宙かの決着はつけにくい.しかし,宇宙の初期の名残とされる,いわゆる背景熱放射が見つかり,これが,進化宇宙を支持するものと,多くの研究者が見なすようになり,定常宇宙論は,支持者を少なくした.しかもパルサーを発見したヒューイッシュとともに,ノーベル物理学賞をライルが受賞して,勝敗は一応は決まったのである.ただし,ノーベル委員会は,これによって進化宇宙論を認めたのではなく,ライルの電波天文学への貢献を評価したことを注意しておきたい.

第9章以下では,ホイルが大学を辞職するに至った経緯が取り上げられている.これは評者なりにいえば,ホイルは大学という枠を越えた研究をしてきたし,またそうしようとしたわけであるが,結果として,それが許されなかったということなのだろう.ことは,流体力学の専門家である,G. K. バチェラーが,応用数学・理論物理学教室(学科,今風にいえば,専攻となるが)を設立して,理論系の研究者を集めたときにさかのぼる.教授は当時,理論物理学の P. A. M. ディラックと理論天文学のホイルであった.しかし,当時リーダー(Reader)のポストにあったバチェラーが学科主任の地位にあった.ホイルはその研究仲間の大部分がアメリカ人であり,かれらと共同研究をするには,大学の1学科というのでは制約が多くありすぎた.さらに,1964年に,主任の再選挙があり,ホイルは期待していたにもかかわらず,バチェラーが再選された.この結果にホイルは不満を表明し,以後,学科の研究室で仕事をせず,自宅か天文台の図書室で仕事をするようになる.さらに,米国の有力大学と同等のレベルの研究をするには,1大学の1学科では十分でないと感じていたホイルは,学科から独立した研究所を設立する必要を強く感じるようになる.客員を招待でき,しかも,活発な討論と研究の場が必要との立場から,理論天文学研究所(IoTA)の設立に尽力する.そこのスタッフは,できるかぎり,教育の義務を少なくし,さらに客員のポストがいくつもあるというものである.大学もそれの設立をみとめ,学外からの資金援助も得て,うまく軌道にのるかに見えた.ただ,そこのスタッフに大学は給料を支払わず,それは外部資金に頼っていた.しかし,英国の経済は好転せず,学外からの資金も次第に細っていく結果となった.さらに,ここで問題があった.観測天文学教授(レッドマン)が,定年で退職し,後任を選ぶことになる.選考委員会ではホイルが候補とした学者(本人は選ばれることを望んでいなかったらしい)を選ばなかった.

また大学側は天文台とIoTAを統合することを決めていたのだが,初代所長に,ホイルではなく,この着任予定の教授(D. リンデン=ベル)を任命した.実はこれには訳があり,ホイルは長期出張を予定していたが,大学としては,外部資金の申請には,研究所長の署名を必要とするので,ホイルを所長に出来なかったのである.しかし,ここにきて,もはや大学にとどまることは出来ないと考え,辞表を提出して,それは受理されたのである.実は,ホイルは内々に,着任予定者に,60歳に達したときには,所長職にとどまる意思のないことを伝えてあったことが書かれている.仮に,大学側がこのことを知っていたならば,ホイルを辞任に追い込むような決定をしなかった可能性もある.

ホイルの銅像
ケンブリッジ大学天文学研究所で,評者の友人の Sverre Aarseth が2005年3月に撮ってくれた写真.右側はホイルの銅像,左は評者.Aarseth によれば,像は原寸大だという.

想像するに,理論天文学研究所の所長,王立協会の会員(FRS)であり,学界のゴールドメダル,さらには王立協会のロイヤルメダルの授賞と,傍目には功なり名を遂げてはいたが,最後まで主張した定常宇宙論は,もはや支持するものは少なくなってしまっていた.これは,それに情熱を持って取り組んできたホイルにとっては,苦痛だったのかも知れない.また,自分の周囲にいた研究者も多くがケンブリッジを去り,孤立感を味わっていたのかも知れない.

大学を去ってからも,ホイルの研究意欲は旺盛だった.宇宙論は言うにおよばず,パンスペルミア(地球外の生命が存在するとする説)にも言及した.さらには,自然史博物館にある始祖鳥化石が偽物であるというような主張までした.彼のパンスペルミアでは,彗星が生命(微生物)の運び屋であるということである.生命が彗星内に存在するか否かは別として,そこに有機物質が存在することは,大いにありうる.これは,彗星探査の結果待ちということになるのだろう.また,ヒューイッシュがノーベル物理賞を受けたときに,最初に手がかりをつかんだ院生の J. ベルが賞を受けなかったことについて,ノーベル委員会を非難したことなどが,マスコミで大きくとりあげられた.一言でいえば,ホイルの発言や行動には,いろいろと批判されてもいたしかたのなかったこともあったようである.

彼の最後の著作は,G. バービッジ,元,彼の学生であった J. ナーリカーとの共著の「A different approach to Cosmology」である.これは,現在標準理論とされている進化宇宙論の問題点を取り上げ,さらに定常宇宙論を最初の発表された時以降の観測結果に合うように修正したものを訴えている.最初その原稿はバービッジから著者宛てにもちこまれたことに触れ,それをどういう経緯で,出版したかに触れている.おもしろいのは,このような専門書は通常500部も売れればいい方なのに,3500部も売れたのは,現在の学界の情勢を反映しているのかも知れないと著者が書いていることである.そして,ホイルの定常宇宙論からは,宇宙の膨張は加速することが導かれるが,これはまさにここ数年に観測から導かれていることだとしている.

ホイルはノーベル賞は受賞しなかった.しかし,1994年には,星の進化の研究に対して,バルザン賞を M. シュワルツシルドとともに受賞し,また1997年には,ノーベル賞の対象以外の分野に与えられるスウェーデン科学アカデミーのクラフォード賞を受け,面目を回復したのである.ホイルは2001年8月20日に死去した.

書評を終えるにあたって,この本とは直接には関係ないが,気づいたことに触れておきたい.著者は,いろいろな資料を巻末に挙げているが,感心したのは,ホイルの手書き原稿その他の資料が所属カレッジのアーカイブ(古文書館)で保管されていることである.要するに英国では,そして多くの欧州の大学では,図書館は単に研究や調査の資料を提供するという役割を担っているだけでなく,歴史資料になりうるものをも保存しているということである.これは,修道院などの図書館についてもいえる.そして,何が歴史となるかは,特定の資料が作られた段階では判別できない.にもかかわらず,膨大な量の資料を保存している.これは,彼らの歴史というものに対する考え方を示しているのではなかろうか.彼らにとっては,現代も後世からみれば,歴史の1ページであるということなのだろう.

最後に,参考文献を挙げておく.書評に,参考文献を付けるというのも異例かもしれないが,ホイルの業績は20世紀中期の天文学の進歩に大きく関係しているので,彼の業績のよりよい理解の一助としたい.

  • Bondi, H. 1960, Cosmology, Cambridge Univ. Press
  • Bath, G. (eds.) 1980, The State of the Universe, Oxford Univ. Press (邦訳「現代の宇宙像」, 知人書館, 1982)
  • Hoyle, F., Burbidge, G. & Narlikar, J. 2000, A different approach to Cosmology, Cambridge Univ. Press
  • ホイル, F., 天文学の最前線, 法政大学出版局(原題 Frontiers of Astronomy, 1955)