『醒世姻縁伝作者和語言考論』序(袁世碩)

 明末清初、中国白話小説は旧話本を整理加工して作成する段階から個人創作の段階へ突入し、多くの文人が次々と新小説を創作した。
 当時の小説は、まだ大雅の堂に登っていなかったことから、多くの作者はその実名を露わそうとせず、室名や別号を用い、それを署名した。これこそが、近世の小説史家を大いに困惑させ、しかも正確な答えを導き出せていないのである。
 文献資料がうまく手に入らないことにもより、小説の中には作者が永遠にうまく考証できないものも出てくるであろう。
 『醒世姻縁伝』は、それ以前の『金瓶梅』とは比較にならないし、それ以後の『紅楼夢』とは更に比較にならない。しかし、明清小説の中でやはり賞讃に足る長編小説である。これは、もはや旧小説の枠を踏襲せず、完全に現実生活を取材し、世態人情を描写している。譴責小説の発端を開いた角度から言えば、中国小説史上とうぜんその一席の場を有すべきである。
  『醒世姻縁伝』は西周生と署名されている。この西周生とは、一体誰なのか?清人はかつて推測の域を出ていないが『聊斎志異』の作者蒲松齢だとした。
 20世紀に入って、胡適之は中国の章回小説考証を大々的に行っていった。彼は細心緻密な考証により、蒲松齢説を更に堅実なものにした。
 しかしながら、胡適の考証は動かぬ証拠を出してはいない。蒲松齢の著作とその他の彼が関連する文献資料から『醒世姻縁伝』を著作したという形跡を捜し出してはいないのである。
 『醒世姻縁伝』の旨趣と風格は、蒲松齢の作品、それも文言で書かれた『聊斎志異』や方言土語がふんだんに盛り込まれた『聊斎俚曲』も含めて同類だとは決して言えない。
 したがって、当然ながら『醒世姻縁伝』の蒲松齢説は一部の研究者の疑問や反対に遭った。
 後、『醒世姻縁伝』の作者は諸城の丁野鶴だと主張する人が現れた。そのうちのある考証は、相当よく行われているが、やはり確証が出されていないのである。行われた考証も大きな蓋然性を帯びていて、『醒世姻縁伝』は丁野鶴の著作という結論を堅固にはさせていない。
 丁野鶴の著作は極めて多く、小説『続金瓶梅』や『化人遊』等の4種の伝奇があり、実名を署名しなくとも「猶お琵琶を抱きて半ば面を遮う」如く、書の序や跋の中にその痕跡を捜すことができるばかりか、『続金瓶梅』では故意に紫陽道人が丁野鶴であると顕示している。
 『続金瓶梅』によって丁野鶴はかつて入獄され、幾度か自殺を図った。ところが、『醒世姻縁伝』は清朝の禁忌に触れた内容ではない。もしも本当に丁野鶴の作であるならば、彼はなぜ完全に隠す必要があったのか?詩文中にも少しの痕跡すらないのである。
 近年、徐朔方先生はこの書にある山東省綉江県(即ち、章丘県)明水鎮郷の民俗を熱情溢れる筆致で書いているのを指摘された。
 第26回に「この明水鎮の地方もこれが数十年以前であれば、或いは敢えて唐虞の頃までではないが、断じて、西周の風景に劣るものではなかった」とする。「これは実際に調査した作者が西周生と署名したことの起因である」。「このことから、作者は山東省章丘県の人で、その他のいかなる仮説に較べてより合理的である」(「『醒世姻縁伝』及其和『金瓶梅』的関係」,『論《金瓶梅》的成書及其他』p.176-177)。
 これは確かに最も綿密慎重、明智な説である。これまでの二節よりも更に合理的ではある。しかしながら、結局のところ、謎の底を完全には開けていず、西周生は誰かを探求しきれていない。しかも、章丘の人と断定するのも疑念がない訳ではない。
 ここ何年間か、私の学友徐復嶺君は『醒世姻縁伝』の作者の問題について興味を抱き、潜心研究され、系統的な論文を書かれた。それは、西周生は明から清にかけて木皮鼓詞を書いた賈鳧西だと推定している。
 この結論について、私は興味を抱かなかった。というのも、この問題は、つまるところ「水が落ちると自ずと石が見えてくる」如く、基本的には結末のついた案件であると考えられるからである。
 ただ、私の大きな興味を引き起こしたのは、彼の研究が確実に西周生の謎を1つ解き明かしているた感じた点にある。それは、1つの参考価値に富む新しい手がかりで、重要な発見であると思われるからである。
 それは、徐君の論文の中で『顔氏家蔵尺牘』の中の周在浚が顔光敏へ宛てた一通の手紙である。手紙は顔光敏から借りた『悪姻縁』を返して貰うところから出発している。
 『悪姻縁』は『醒世姻縁伝』の「本名」であることは、『醒世姻縁伝』の巻首の「凡例」で既に示されている。
 手紙の中で「聞台駕有州及句曲之行」とあるが、その時、顔光敏はちょうど江南を旅していた事が分かる。江寧或いは揚州に泊まり、顔光敏の南遊は清・康煕20年(1681年)である。
 周在浚は人を立てこの書を求めた。手紙では「因呉門近已梓完,来借一対,欲寄往耳」とある。これは、以前の研究者では未発見の重要資料で、これにより『醒世姻縁伝』の成書、伝播、刊行の問題を説明することができる。
 『醒世姻縁伝』の成書年代は、これまでの研究者は主に内証を求めた。即ち、書の中に欠かれてある人事、気候などの方面から推測した結果、見解は分かれ、明と清の二説ができた。
 各自の見解から見て、清初の方が合理的であるけれども、外証が無い。推測するにしても十分な説得力に欠ける。
 周在浚が顔光敏に宛てたこの手紙は、この欠けた処を丁度補えるのではないか。
 第一に、この書の初版本が呉中で刊行された。時に康煕20年である。
 第二に、この書刊行の前に写本が江南に伝わっていた。「凡例」の中で云う処の「此書伝自武林,取正白下」はほぼ虚言ではない。前句は、その底本が武林の某氏から得られたことを述べ、後句は恐らく刊行する時に周在浚蔵本を借りて照合校閲したことを指している。このように、当時、江南には少なくとも二種類の写本が存在した。
 第三に、呉中書坊は周家蔵本を借りて校閲しようとしたが、恐らく周在浚の父親周亮工がかつて康煕初年に青州海防道を勤めた説き、その写本を山東より得たが、誤謬が少なかった。
 それゆえに、この書の巻首に環碧主人の「弁語」に「辛丑」と署したのである。それは順治18年(1661年)であらねばならない。よしんば、そうでなくとも、この書は作者の手による成書の後、写本となり江南へ伝わった。それには数年ないし十数年の時間が経ねばならない。
 第四に、以上の数点を総合して、清初説論者が挙げる内証を参照すれば、この書は清初順治年間に成書したものとなる。これは当然認可されてもよい。
 徐復嶺君が提出した『醒世姻縁伝』の作者は賈鳧西だとする主な論点は次の4つである。
一、 賈鳧西は明から清にかけての人で、『醒世姻縁伝』創作の年代と合致する。
二、 賈鳧西は曲阜の人で、後、yan州へ居を移した。『醒世姻縁伝』についていえば、作者は曲阜、yan州一帯の地理、民俗に通暁している。しかも、小説は武城、章丘を背景にしているが、時折yan州一帯の様子を露している。例えば、武城に魯王府はない。明代の魯王府はyan州城内に存在したなど。
三、 『醒世姻縁伝』が使用する言語はyan州一帯の方言口語である。
四、 『醒世姻縁伝』の思想観念は賈鳧西と同一である。
 これらは単に比較対照しただけの推論でしかない。実際の証拠で確認した結果の論ではない。時間、土地、思想などの条件に合致する人は必ずしも賈鳧西とは限らないからである。更に、yan州一帯の地理、民俗に詳しい人は必ずしもyan州人とは限らない。
 方言の使用範囲は一層確かな限定が難しい。近隣地域の方言にも多くの共通点が存在するからである。
 たとえこのような批判があっても、私は徐復嶺君の研究は非常に意義があると思う。
 彼はこれまでの研究者が注意しなかった現象に気付いた。例えば、『醒世姻縁伝』で描写されているyan州一帯の情景が実際のものと非常によく符合している点。それに、魯王府、河道軍門に書き及んでいること等である。
 この作者は済南、章丘に詳しい」だけにとどまらず、yan州一帯の様子にもよく通じていた。
 徐君の結論はなお確認の証明を待たねばならないが、彼が列挙したこのような情景は実在しており、この書の作者を探求するにはこのようなことを考慮しなければならない。これを一つの手がかりにし、必ず一致しなければならない一つの条件となり得る。
 徐復嶺君は元々語学教育・研究に従事する研究者である。したがって、『醒世姻縁伝』の言語に対する研究も具体的、且つ詳細である。
 単に荒い部分的な方言語彙を例証としていたのでは信頼できない。しかし、語彙、語音、語法の幾つかの角度から分析を行っている。これらは、これまでの『醒世姻縁伝』の言語関連の論著を凌駕している。
 彼の分析は、まだ『醒世姻縁伝』の言語はyan州一帯の方言だとは認定できないけれども、大体の地域範囲は明確になったと言ってもよい。『金瓶梅』に近い魯中南方言であると認定してもよい。とりわけ、小説中の人物の言語についてである。
 このうち、面白いと感じたのは、排印本の注釈、標点の問題で、多くの失誤を指摘している。
 私はyan州人で、長期にわたり済南で生活している。よって、同感部分が多い。彼が指摘している失誤や行った訂正は絶対部分が正確である。これは、原注釈、点校者の学力不足ではなく、この書の方言に対して余り通暁していないことに起因する。
 なぜなら、古代の通俗文学作品を、特に、主に口語で書かれた作品に点校、注釈するのは古文、古典詩詞を点校、注釈するよりも容易ではない。歴代学者の訓詁学の蓄積があれば、後者はほぼその原義や来歴が捜し出し得る。
 しかるに、前者は依拠するものが少なく、その地域の方言に通暁していなければならず、軽率な態度でことに当たってはならない。
 徐復嶺君はこれまでの論文をまとめて一冊の本にし、出版するに当たり、私に序を書いてほしいと願い出てきた。我々二人は長い間の交際があるので率直に自分の意見を述べたにすぎない。これにてお祝いを申し述べる。
                                   袁世碩
                                   1993.8.10.


                                  (植田均訳)

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