『醒世姻縁伝』校読後記汪乃剛
『醒世姻縁伝』は民国15年(1926年)に組版ができた。これより過去の何年間かは胡適先生が考証資料を捜し得ていなかったため、今日にいたるまで出版されなかった。
現在、胡適先生の考証は書き上げられたが、そればかりではなく、徐志摩先生もこの書に一篇の長い序文を寄せられた。これにより、我々の版本もようやく皆様の前にようやく相見えることとなった。
今、標点校読の経過を皆に報告する。全部で4種類の版本を集めた。
(1)同治庚午の木版本(以後、甲本と称す)。この書の内封面に「同治庚午新鐫」「西周生輯著」「重訂明朝姻縁全伝」「然藜子較定」などの文字がある。
書の前部に環碧主人の序があり、凡例八条、東嶺学道人の弁語がある。どの板も十行で、どの行も25文字である。
(2)刊行された年号の無い木版本(以後、乙本と称す)。この書の内封面にはただ『醒世姻縁伝』の5文字を有するのみ。
(3)受古書店の石印本。最初が「引起」で、序文、凡例などが無い。
(4)上海書局の鉛印本。書名は『絵図醒世姻縁』、「光緒24年仲春之月上海書局石印」。全十冊。底本は5号鉛字排。巻首に次の一〜三がある。
一、『醒世姻縁伝』弁語。
二、『醒世姻縁伝』凡例計八則。
三、東嶺学道人題の序文。
以上、(1)〜(4)の版本は、実際には3種類の版本である。二つの石印本は一種で、いずれも価値が無く、注意する事もない。
(中略)
(甲本と二つの石印本との比較、そして、甲本と乙本との比較が開陳されている。これらを略す)
このような例を見れば、甲本が最も良く、最も信頼できる版本であると認められる。我々はこの版本を「同治本」と称し、底本として翻印する。
(中略)
二
胡適先生が6、7年前、我々とこの書を整理する計画を立てられた時、この書の著者は恐らく蒲松齢だと主張された。後、胡適先生は『骨董瑣記』の中の資料と『聊斎志異』の中の資料を発見された。そのつど、我々と議論されてきたが、ここに来て、先生の収集された資料は更に多く、証拠もいよいよ多く、蒲松齢はこの大著の作者であるという説は、鋼鉄のように堅く、揺るぎもしないものになった。
この点は、我々がこの書を整理する上においてとても関係が深い。蒲松齢は山東省zi川人であるからには、この書の言語は当然山東語である。
それゆえ、校読の際には十分慎重に行った。我々が用いた幾つかの比較選定した原本の本来の姿を保存しなければならないため、一文字すらも軽々しく校改してはならないのである。明らかに間違った文字でなければ。
それは、最初難解であっても、細かく見て行けば決して不明瞭なわけでもない。以下、幾つか例を挙げる。これらの例は、多く原書通りで、校改していない。
(1) 這極不殺人麼?(第4回) "極"は"急"の字である。
(2) "己"(第7回など)は"給""与"の意味。
(3)"懇"(第8回)は"口"偏で"肯"の字。
(4)"吊"(第6回など)は"掉"または"釣"とも作る。
(5)"一弄"(第61回)は恐らく"一套"と解される。
(中略)
甲乙両本を校閲し、校改せざるを得ない場合がある。
[A]乙本より校改した字。
(1) 不呈告。(第47回)。甲本は"告"を間違って"没"とする。
(2) 逓了几盞上馬杯。(第55回)。甲本は"吃"とするが、本来は童七が酒を届け、送別とするのである。"吃"では意味が通じない。
(3) 禍相侵。(第57回)。甲本は"侵"を"浸"とする。
(4) 這們促狭。(第58回)。甲本は"們"を"的"とする。
(5) 依旧奉承。(第65回)。甲本は"旧"を"傳"とする。
(6) 能致得…。(第68回)。甲本は"能"を"一"とする。
(7) 大老婆没了。(第68回)。甲本は"婆没"を"人一"とする。
[B]我々が校改した字。
(1) 抬過祭品。(第41回)。"祭"は原本で"發"とする。
(2) 偏偏都好。(第51回)。"偏"は原本で"彳"の"扁"とする。
(3) 浄土。(第58回)。"浄"は原本で"静"とする。
(4) 巨毋覇。(第61回)。"毋"は原本で"五"とする。
(5) 也四十両銀子。(第84回)。ここは原本で"千両銀子"とする。
(6) 送了。(第85回)。"送"は原本で"遂"とする。
(7) 寄姐。(第87回)。ここは原本で"一姐"とする。
(8) 在船上看守。(第87回)。"看守"は原本で"看婆"とする。
(9) 還不快些譲進他来哩。(第89回)。"進"は原本で"逓"とする。
(10)尽気力一戳。(第92回)。"戳"は原本で"戮"とする。
(11)采訪了。(第94回)。"訪"は原本で"妨"とする。
[C]我々が文字・語句を増補した箇所。
(1)(不)耐煩。(第4回)。
(2) 在那主人(処)住下。(第13回)。
(3) 店家(聴)説。(第27回)。
(4) 只得(譲他)病在店里。(第27回)。
(5) 在按院(充当)書吏。(第35回)。
(6) 又(有)不肯出保的意思。(第37回)。
(7) 俺婆婆要不(為)着老皺。(第49回)。
(8) (晁無晏)独自鼈了…。(第53回)。
(9) …(的話)説了一遍。(第68回)。
(10)(于)是重整…。(第83回)。
(11)脱不(了)也是箇…。(第96回)。
(12)又(参)参将。(第99回)。
カッコの中の文字は原文に無いが、文意を考え加えたものである。
本文の校点については、詳細に見ればまだ多くの不満箇所が存在する。印刷にまわした時に少なからず訂正したが、まだまだ未発見の誤りはどうしても避けられないだろう。読者諸兄が随時指正下されば大いに歓迎するものである。
1931.8.16.
汪乃剛
『醒世姻縁伝』の校点は、われわれが整理翻印した十幾種の旧小説の中で最も困難を極めた。というのも、この書は、全編山東方言で書かれているからで、中には特殊な土語もあり、本当に分かりづらい。
印刷の組版にまわす時、三、四種類の版本を相互に校読した。残念なことに、読んでも理解できない、解決できない箇所は依然として多かった。
昨年8月、胡適之先生はこの書に考証を行った折り、zi川の馬立勳先生が聊斎白話曲文十種を発見された。これらは非常に価値ある作品で、我々が整理・刊行するのを快諾してくれた。
その時、私の友人胡鑑初君がちょうど胡適先生の家に滞在していた。胡先生の考えでは、この十幾種の曲文と『醒世姻縁伝』は確かに1人の手によったものである、したがって、両者は互いに深い関係がある、ということであった。
それゆえ、鑑初兄は『醒世姻縁伝』の標点本をその十幾種の曲本を用いて、相互に参照、もう1度校読した。彼が仕事を始めるに当たり、胡先生は彼に、
「多くの特殊な土語がある。相当わかりづらい。よれゆえ、帰納法でやるしか仕方がない。同類の例を全部列挙し、比較研究して初めてそれらの意義が確定できる」
とおっしゃった。
鑑初兄は胡先生の主張に従い、多くの時間を費やし、注意深く全書を初めから終わりまで校読したのである。この結果、我々が依然わからなかった、解決できなかったものの大半がわかるようになり、ほとんどが解決できたのである。この版本が何年か前に組版にまわした時、当然ながら非常に慎重に扱ったのは言うまでもない。
もし、胡適先生のご指導がなく、馬先生の発見がなく、更に、鑑初兄の重ねての校読の苦労がなければ、この書の間違い・誤読は現在よりも多かったであろう。今、本書は出版された。我々は胡適先生、馬先生及び鑑初兄にこの上ない感謝をしている。
そして、もう一点、書の中に一般人が見て卑猥であると感じる箇所がある。実際は、ごく普通のことで、何でもないのである。しかしながら、種々の事情により、×符号をつけ、伏せ字とせざるを得なかった。このような仕方のない方法は、読者諸兄に深くお詫びする次第である。
乃剛 附記
1932.12.28
(植田均 抄訳)
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