『醒世姻縁伝』考証 胡適 (抄訳)
                             
 亜東図書館標点重印版『醒世姻縁伝』は組版ができて六、七年になる。試し刷りが私の所においてあり、私に序文を書いてくれと、毎年言ってくる。
 実は、この書の作者"西周生"は誰なのか、考証できていない。したがって、この六、七年ずっと序文を書けないできている。
 ただ、この何年間かで研究資料が徐々に増えてきた。それで、大胆にも『醒世姻縁伝』の作者が誰であるかという難題に解答を与えることができるようになった。
 この解答というのは、幾つかの曲折を経て、大胆な仮説、忍耐強い証拠捜しを行い、ついに満足のゆく実証を得ることができたのである。(中略)。

 一 私の仮説
 『醒世姻縁伝』刻本首巻に「西周生輯著、然藜子較定」とあり、一篇の弁語もある。その末尾に、
   環碧主人題。辛丑清和望後午夜酔中書。
とある。これは、何の考証材料にもならない。辛丑というのも、いつの辛丑歳なのか、定かにできない。この弁語が著者の自序なのか、それとも刻書者の手によるものなのか、わかるよしもない。
 本文の内容は、明朝英宗正統年間に始まり、憲宗成化以降までの、いずれにしても15世紀のできごとである。しかしながら、中身の事実からして、決して明朝中期の作品ではないことが分かる。
 その証拠として、第1に、本文中にしばしば「楊梅瘡」に触れている点。「楊梅瘡」は、西洋人がアメリカからヨーロッパに持ち込み、それから中国へ伝えた。中国で輸入されたのは、広東であったゆえ、「楊梅瘡」は、本文中で「広東瘡」と称されている。
 コロンブスがアメリカ大陸を発見した弘治5年(1492年)は15世紀の末である。したがって、『醒世姻縁伝』は17世紀の書であらねばならないと考える。明末または清初であっれ、それよりも早くはない。
 第2に、本文では『水滸伝』『西遊記』の典故に何度も触れている(例えば、第87回の牛魔王夫人、地サツ星顧大嫂、孫二娘など。また、第98回の林冲、武松、廬俊義など)点。これは、『醒世姻縁伝』の成書が『水滸伝』『西遊記』の定本流行の後であったことを物語る。いよいよ、明末清初の時代でないとつじつまが合わない。
 この点について、董綬金(康)、孟心史(森)両先生にご教示戴いた。孟先生は、私への長い書簡にて、
「恐らく清初の作品である」
と主張された。「楊梅瘡」が広東から北方へ伝わるには、更に長い時間がかかると推測した私は、この説に傾く。
 では、「西周生」とは、一体だれなのか?
 この問題を解決するには、どこから手をつければ良いのか?
 この書の内容を吟味した結果、構成が『聊斎志異』の中の『江城』という一篇に酷似していると考えるようになった。
 『醒世姻縁伝』の構成は、前世と今世に渡る「悪因縁」を描いている。
(1) 前世
晁源が一匹の仙狐を射殺し、その皮を剥いだ。晁源は妾珍哥を寵愛したが、逆に正妻計氏を首吊り自殺に追いやった。
(2) 今世
 晁源は、狄希陳に転生し、仙狐は晁源の正妻薛素姐に転生した。また、計氏は晁源の妾童寄姐に転生した。
狄希陳は妻素姐の様々な虐待に遭う。素姐の残虐凶暴ぶりはいよいよ人の道を外れる。後、幸いにも高僧胡無翳が「前世から今世への因果応報」を説く。狄希陳は、高僧の指示通り、『金剛経』を一万遍唱えた結果、漸く悪業が消滅したのである。(中略)。

 三 孫楷第先生の証拠
 19年の夏、私は再び北京へ行き、中海で孫楷第先生と会った。私は、先生が小説研究の大家であることを存じていたので、『醒世姻縁伝』に関する資料を捜す件で協力をお願いしておいた。
 何ヶ月か経って、孫楷第先生は私に長文の手紙で研究結果の報告がなされた。ここで、その全文を載せ、参考に供したい。
 内容は、『醒世姻縁伝』に記されている地理、災祥、人物の3項目で、済南府に属す各県の地志と相互比較し、証明するものである。
(1)本文中の地理は、章丘、zi川、の両県である。
(2)成書の年代は、崇禎、康煕時代。いくら早期でも崇禎よりも早くはない。
(3)作者は、蒲留仙のようだ。さもなくば、明清の章丘の人、またはzi川の人である。
 孫先生は、本文中の綉江県を章丘だとする。証拠は確かで疑いが無い。人物考証において、第31回の災害救出の官李粋然は実在の人物である。本文では、河南河内の人で、丙辰歳に進士となる。これは全て事実である。
 これは、大変重要な発見で、孫先生は特に第27、29、31回記載の様々な災害に注目している。
 先生は、『済南府志』『zi川県志』『章丘県志』の災祥部を用いて比較した結果、本文記載の水害、干害は全て崇禎、康煕年間の実在事項である。
 この時、私と孫先生は蒲松齢の全集を読んでいなかった。後、我々は『聊斎文集』の何種類かのノートを見て、災害の詩や幾篇かの記載が康煕四十二、三年zi川に災害発生の下りを読み、孫先生の方法は慧眼であると思った。
 今、私が一例を挙げ、孫先生の研究を補説しよう。
 『聊斎文集』に『紀災前編』があり、康煕四十二年、zi川の災害模様が記されている。開篇に言う:
   癸未(1703)四月天雨,二麦歉収。五月二十四日甲子,雨竟日…。
『醒世姻縁伝』第90回成化14年武城県の被害状況は次の如くである。
  ところが、4月20日前後になりまして、麦に七八分実が入ったくらいに、何と甲子日
 に雨が降り出しました。一日中、夜も昼もバケツをひっくり返したような土砂降りで、
 七八日は降り続けました。
 この両者の被害描写は「甲子日」の大雨に重点を置いているが、これは決して偶然ではない。この二つの記述は、蒲松齢1人の手によるものであると推測できる。また、『醒世姻縁伝』第90回の災害描写は、まさに康煕42、3年のzi川の災害模様であると推測できる。
 これは、作者の考証ばかりあ、この著作が康煕42、3年(1703-4年)――蒲松齢64、5才の頃――で、作品がまだ完成していないことが分かる。これは非常に重要な一つの証拠となる。
(中略)

 五 聊斎の白話韻文の発見
 このころ、私の友人たちは私の仮説に対する最大の疑問点を、
「『聊斎志異』のような文言作家が『醒世姻縁伝』の如き活き活きとした俗文学を描写できるのか?」
とした。この問題点をクリアすれば、私の仮説は一層確実なものになるはずである。
 民国18年(1929年)、北平朴社が『聊斎白話韻文』を刊行した。これは、zi川の馬立員力先生がzi川の親戚の家から得た資料をもとにしている。これには、次の六篇の鼓詞が含まれている。
(1)『問天詞』     (4)『学究自嘲』
(2)『東郭外伝』    (5)『除日祭窮神文』
(3)『逃学伝』     (6)『窮神答文』
(中略)

 六 聊斎の白話曲詞から『醒世姻縁伝』の作者を証明する
 この十幾部の白話曲詞は、もとより蒲松齢が白話文学を著作できる証明となった。そして、一歩進めて尋ねてみる。
「これらの曲詞のちすち文字学上の証拠を探し出して、これら曲詞と『醒世姻縁伝』の作者が同一人物であると証明できないだろうか」
と。
 この種の文字学上の考証は困難を極める。しかしながら、私は最初に『聊斎白話韻文』六種を見た時、こういう比較研究を試みたいと考えていた。当時、その六種の短篇資料しかなく、手をつけられなかったのである。
 後に、17種の曲詞全文を見て、文字数も3、40万を下らず、これで、比較研究を行う決心がついた。
 この研究方法は、『醒世姻縁伝』の中で最も特殊な土語を選出し、それを基準とする。そして、聊斎曲本の中で同様の土語を調べ、意義及び用法も同一か否かを検討するのである。こういう方法は、他の文学作品では参考にできない。
 例えば、元局の"兀的不"は、明清代の曲にも用いられる。また、『水滸伝』に"唱re""剪拂"を後の作家も用いる。
 しかし、この種の危険は『醒世姻縁伝』では発生しない。理由は以下の通り。
(1) 『醒世姻縁伝』が用いる最も特殊な土語は、他の土地の人間では見当がつかない。したがって、巷間で刊行された本では故意に削除改竄されている。意味不明な土語は誰も真似しないし、真似しても恥をかくにすぎない(例えば、『晋書』の土語"寧馨""阿堵"は、後世の人が沿用しているが、大きな間違いを犯している)。
(2) 『醒世姻縁伝』はさほど有名な小説ではない。したがって、本文中の土語を真似する筈がない。
(3) 聊斎の白話韻文は、全て未刻の旧写本である。したがって、先に何年何月誰かが『醒世姻縁伝』の考証をすると予測した者はいない。
  先に『醒世姻縁伝』の土語を真似て絶妙な曲文を作り、我々の考証を待っているという
 ことはあり得ない。
(4) 聊斎の白話文学は200年余り埋没していた。したがって、聊斎の未刻曲文の土語を真似て長編小説『醒世姻縁伝』を作成したということはあり得ない。
(中略)
特殊土語
@"待中"(="快要")
A"中"(="好")
B"魔駝"(="遅延")
C"出上"(=" 得")
D"探業"(="安分")
E"流水"(="馬上、一口気")
F"頭信、投信、投性"(="爽性、索性")
G"善査、善cha"(="好對付的人")
H"老huan叨"(="  ")
I"扁、貶"(="偸蔵、暗蔵")
J"偏、諞"(="夸耀")
K"乍"(="狂")
L"照、朝"(="、招架") M"長sang黄"(="噤了喉long")
(中略)

 七 余論
 私が4、5年前に出した大胆な仮説は「『醒世姻縁伝』の作者は蒲松齢かもしれない。また、彼の友人かもしれない」というものである。この何年間かの証拠収集により、全て私の説を幇助することとなった。それらとは、
(1) 『醒世姻縁伝』で描くあばずれ女と『聊斎志異』で描くあばずれ女の物語は、全て酷似しており、関係がある。特に、『江城』篇の命意と布局は『醒世姻縁伝』と符号している。
(2) 『骨董瑣記』は鮑廷博(1728-1814)の言葉を引用。蒲留仙には「『醒世姻縁伝』の小説有り、実に指す所有り」。
(3) 孫楷第先生は『済南府志』及びzi川、章丘両県の県志を用いて『醒世姻縁伝』の地理と災害を研究し、この小説の作者はzi川或いは章丘人である、そして、時代は崇禎、康煕の間であるとした。
蒲松齢がこれらの条件に最も適合する。彼が章丘を用いてzi川を描いたのは、呉敬梓が『儒林外史』の中で、天長、五河を用いて全椒を描いた手法と同じ心理が働いている。
(4) 新しく発見された聊斎白話曲本は蒲松齢が写実の土語文学作家であることを証明している。
(5) 胡鑑初先生は聊斎の十幾種かの曲本の特殊な土語を用いて『醒世姻縁伝』の中の特殊土語とを比較した。結果、文字学上から『醒世姻縁伝』の作者は蒲松齢であると断定できる。
である。
(後略)
          1931年12月13日

     後記
 私は最初にここの序において、先ず作者は誰であるのか、次に、蒲松齢の伝記を書き、そして、この作品の文学価値、史料価値を議論しようと考えていた。ところが、単に考証あけで3万字を費やしたため、その他のことは全てできなくなった。
 蒲松齢の伝記については、将来補う。今は、先に伝記の資料を後に付録としてつける。
 『醒世姻縁伝』の文学価値については、徐志摩先生の長い序の中で既に熱心に、且つ、公平に評されている。九千字の長きにわたるこの序は、徐志摩先生の生涯で最も長い、最も謹厳な文字評論である。
 今年7月初め、彼を私の家の中に4日間缶詰にした。そこで、この長い序文を書き上げた。ところが、残念なことに、活発な風趣、聡明な見解、深い同情の文にもう2度とお目にかかれなくなった。
 私は、この長文によって徐志摩が安心して文学活動をする小さな第一歩であると思っていた。なのに、私の考証が半ばもできていないのに、彼は死んでしまった!
 8年前(1923年)、我々は西湖のほとりに滞在し、彼は私と一緒にマンスフィールドの小説を翻訳しようと約束したものだ。私は半分ほど訳し、筆を置いた。それは、我々の初めての合作の試みであった。
 今回、『醒世姻縁伝』を翻印して、彼は文学批評、私は歴史的な考証というようにすれば、これは、第2の合作になると考えた。
 しかし、これが、不幸にも最後の合作になってしまった!
                 徐志摩死去後、24日。
                           適之。
                               (植田均 抄訳)



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