『醒世姻縁伝』訳者 2002年8月16日更新

訳者:左並旗男
出版社:兄弟舎(株式会社トスコ  書籍部)
出版年月日:2002年4月4日
B5版・総頁数:731ページ(前言、本文、後記)
価格:\14000-

訳者・後記

『醒世姻縁伝』後記 (左並旗男)
 
 本書『醒世姻縁伝』の作者は、他の一般に古典小説と呼ばれる清代までの口語小説に多く見られるように、西周生という筆名を使って本姓を記しておりません。
 魯迅の『中国小説史略』は、広い意味での中国小説の変遷を論じて、中国の古典小説を読む上で大いに参考になる書ですが、何故か本書については触れるところがありません。小説史略の下冊は1924年の6月に版行されましたが、それからしばらく経った同年11月26日付けで銭玄同宛て書簡があって、大略次の如く述べています。
 『醒世姻縁伝』は一名『悪姻縁』といい、いずれが原名であるか知らない。嘗て一見したが、至多至煩で読了するに難く、その大略は因果応報の談、社会や家庭の事を描いて描写は頗る仔細、譏諷は或いは鋭く、『平山冷燕』の流に比べて誠に傑出している。不佞が読了せざるは不佞の粗心の故、この書の罪ではない。その板本についていえば、二種を見た。一は木板本、一は活字本、いずれも『醒世姻縁』と名付けるもの、明板のものは聞いたことはあるが未見である云々。
 これで見ると、魯迅も本書を一見しており、また高く評価していたことが分かります。小説史略で触れなかったのは、或いは読了していなかったので避けたのでしょうか。
 「自分には歴史癖と考証癖がある」と自らいっている胡適は、『水滸』や『西遊記』『紅楼夢』等と共に本書の考証もやって、本書の作者西周生を、志怪小説集『聊斎志異』の作者としてつとにその名を知られた蒲松齢であろうと推定しました。1931、2年の頃です。現在でもその説に従う人もあり、また従わぬ人もあるようですが、zi博に生まれ、清初の康煕54年(1715年)に没した人ですから清初の作ということになります。魯迅は上の手紙に見る如く、作者については何もいっておりませんが、明代の作『平山冷燕』と比べたり、明板は未見だといっているなど、或いは明人の作と考えていたのかも知れません。胡氏の説に従わぬ人でも、本書を明末の山東章丘へんの人の手に成ったものとする見方です。章丘は蒲松齢の生まれたzi川のすぐ西の地ですから、明末に成ったか、清初の作かが問題になるわけで、清初の作であれば、蒲松齢もその可能性があるわけです。不学の私の能く判断するところではありませが、いずれにしても山東章丘へんの人の作であろうということには大方の異論はないようです。この章丘は、本書では綉江という架空の名をつけられており、この一つを除いて、他は実在の地名をそのまま使っています。<
綉江の名は、県東を流れるyu河を一名綉江といい、それより来たと明史などを引いて孫楷第はいっています(『明史・地理志』山東章丘の条、東にyu河あり、一名綉江。康煕『章丘志』yu河、県東一里許り、即ち綉江也)。近くに白雲湖や会仙山もあり、済南への道程も合っています。
 物語はご覧の如く、因果仕立てで、千年を経た狐が殺されて人間に転生するなど、現代の我々に少々耳遠いのですが、これも時代というものの所産でしょうし、こうした事の是非はさておき、狐仙の射殺を発端とし、随所に挿話などを混じえながら、作者のいう、「姻縁の夫婦がまき起こす奇奇怪怪なる事件」を描写して行く作者の筆は、全篇諧謔に満ちていて、明清両代を通して長短合わせ幾百篇の作があるか知りませんが、ちょっと無類だと思います。『水滸』や『儒林外史』などとはまた味の異なった上々の面白い小説だと思います。
 最後になりましたが、山東地方の方言や習俗などについて、鄭州の張万鈞、周樹徳両氏の懇切丁寧なほ指教にあずかりました。特に張万鈞氏は、後々も書信による質疑に対して、その都度煩労を厭わずご指教を吝まれませんでした。その他、孔秀蘭氏、張弦生氏、また兄弟舎の深澤俊太郎氏からも多大な援助を蒙りました。お名前を記して厚謝する次第です。
                                      訳者




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