『醒世姻縁伝』前言 2002年7月26日更新

前言 (厳云綬・斉魯書社版)

  一
 『醒世姻縁伝』は清初に出現した百回の長きに達する巨著である。日本・享保13年(清・雍正6年、西暦1728年)の『船載書目』に『醒世姻縁伝』の名が見える。そこに記載されている序、跋、凡例は、現在行われている本と全く同一である。したがって、この小説は、1728年以前に必ずや刊行されていると断定できるであろう。世に問うた後、広く流行し、日本へも伝わったのである。
(中略)
 『醒世姻縁伝』は明らかに『金瓶梅』と遠くで呼応している世情小説の傑出した代表作品の一つである。  現存する『醒世姻縁伝』木刻本に"西周生輯著"と署題されている。"西周生"とは誰か?この問題は学界で今日に至っても未だ一致した認識が得られていない。
 三十年代初め、胡適は、上海亜東図書館が刊行した『醒世姻縁伝』を「考証」した。それは、『醒世姻縁伝』と『聊斎志異』及び蒲松齢のその他の作品を対照研究したもので、そこから西周生とは即ち蒲松齢であるとの見解を出した。
 胡適は、『醒世姻縁伝』と『聊斎志異』の中の『江城』とが物語の内容の点で符合していると指摘した。彼の見解は、小説の本文を研究して出されたもので、相当な説得力がある。しかも、『昭代叢書』癸集楊復吉の『夢闌瑣筆』の中で、明らかに「『醒世姻縁伝』の作者は蒲松齢」と記述されている。
(中略)
 これらのことから、山東のある地域では、蒲松齢が『醒世姻縁伝』を書いたという伝聞が存在していたことがわかる。これらの筆記と胡適の考証を合わせて見れば、『醒世姻縁伝』の作者は蒲松齢であるとする結論は、堅実な根拠があるといえる。
 しかしながら、別の学者は、疑問や反対の態度を呈している(例えば、路大荒など)。ただ、こういう方々が提起している理由は、有力な論拠となっていない。現在、様々な資料から判断して、やはり、胡適の考証は比較的合理的であると考えられる。

 二
 『醒世姻縁伝』は、全編で百万近い字数を擁する。
(中略)
 全書を貫いているのは、二世にわたる悪因縁である。第22回以前が前世の因縁で、(中略)第23、24回が挿入部分。そして、第25回から後世の因縁が始まる。
(中略)
 五
 魯迅はかつて銭玄同への手紙の中で、『醒世姻縁伝』は「描写が頗る仔細である。風刺も鋭いものがある。『平山冷燕』に較べ、蓋し誠に傑出しているもの也」(『魯迅書信集』p.63)という。
(後略)

                               厳云綬
                               1992.9.20

                                                     
(植田均 抄訳)







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